女優として女として情熱的に生きた生涯 「カチューシャ可愛いや別れのつらさ　せめて泡雪とけぬ間に　神に願いをララかけましょか」 中山晋平が作曲した「カチューシャの唄」は、松井須磨子が『復活』で熱唱し、一世を風靡した。この曲の流行とともに、女優・松井須磨子の名前は広く世に知られることとなった。 須磨子は33歳という若さで自らの命を絶つことになるが、女優を志した19歳の頃から10年あまりの短い間に『人形の家』『モンナ・ヴァンナ』『マグダ』など、演劇史に残る多くの舞台を演じた。須磨子の日常生活を撮した写真は楚々として、いかにも良家の子女といった趣だが、役にのめり込んだ舞台写真となると一転、鬼気迫るものさえ感じさせる。その気迫は、須磨子の波瀾万丈な人生をも映し込んでいたのかもしれない。 須磨子は明治19（１８８６）年、現在の長野市松代町清野に生まれた。24歳までの間に養父、実父と相次いで亡くし、上田、東京、須坂、また東京と居を移した。さらに２度の結婚と離婚、自殺未遂をも経験した。須磨子唯一の著書『牡丹刷毛』のなかで故郷松代のことを「石垣の窓の二ツ窓ある土蔵が一番早く目につく、これが私の家！ 私はあすこで生まれたのだから…」と記している。運命に翻弄された幼少期であったからこそ、故郷の風景は心の拠り所であったのかもしれない。今でも、二ツ窓の土蔵は松代の町にたたずんでいる。 須坂へは、１度目の離婚の後、製糸業を営む伯母を頼って逗留したという。今でも呉服店綿幸の隣に身を寄せた小田切家は残る。しかし１年も経たないうちに失踪、上京し、ここから須磨子の女優としての人生は始まった。 上京後、須磨子は坪内逍遙、島村抱月ら大正、明治の演劇界の立て役者たちとともに一時代を登りつめていった。しかし、妻子ある抱月と恋に落ち、それが表沙汰となると、男尊女卑の時代にあって新聞、雑誌は須磨子の批判を書き連ねた。それでも須磨子は病で急逝した抱月の葬式をも中座して舞台に立って女優魂を貫いたが、唯一心安まる理解者であった抱月の死は大きく、２カ月後には後を追って自殺してしまう。これほどに情熱的な須磨子の生涯はスキャンダルとして語られてきたところも多い。しかし、評価すべきは、時代の重圧に屈しない女優としての演技であろう。当時は録画技術もなく、現在に須磨子の演技を再現はできない。しかし、日本各地で再演された舞台の数々を思えば、その素晴らしさはうかがい知れる。 “新しい女”として時代の激流に揉まれ疲れ果ててこの世を去った須磨子は、今、松代を見下ろせる生家の墓所で眠る。生前、松代の地を思うことで少しでも心安らぐ時間を過ごし、その地で安らかに眠っていることを願わずにはいられない。 松井須磨子のプロフィール 日本の新劇初の女優と謳われた女性。明治19（１８８６）年、松代町清野に生まれ、不遇の幼少時代を経て女優を目指すようになる。『復活』『人形の家』など歴史に残る名舞台を演じた。恋人であった島村抱月と芸術座を立ち上げ、公演に励むが抱月の死から2カ月後の月命日の日に後を追って縊死を遂げる。33歳という若い死だった。 松井須磨子生家 須磨子が生まれ、養女として上田へ行く6歳まで暮らした家。長野市松代町清野にあり、今でも須磨子が著書『牡丹刷毛』に記した二ツ窓の蔵が残る。現在は須磨子の姪の子にあたる人が暮らし、守っている。また、故郷での上演を強く望んだ須磨子は、女優として名声を得た後も、須坂市、長野市、上田市と「復活」などの公演で訪れ故郷松代にも立ち寄っている。 浄土宗  林正寺 真田家2代信政の霊屋として建立された入母屋造りの表門がひときわ目を引く浄土宗林正寺。境内には「カチューシャ可愛いや…」で知られる「カチューシャの唄」の須磨子直筆の歌詞を刻んだ歌碑のほか、遺影や遺品なども掲げられている。 小田切家 18歳で最初の結婚に失敗した須磨子は一時須坂の伯母の家に寄寓し、演劇への志を得て再び東京へ旅立っていった。その伯母の家とは綿幸サロン隣の小田切家。綿幸店主の中野博勝さんの祖母古定さんは、明治19（１８８６）年生まれで須磨子と同じ年。須磨子が須坂公演で小田切家を訪れた時、綿幸へ寄って足袋を購入、「まあしばらくね」と古定さんに声をかけたと伝えられている。